日本の文芸界でもっとも注目される文学賞は、芥川賞?直木賞です。
芥川賞は純文学系、直木賞は読み物系というおおよその棲み分けがありますが、どちらも年2度、上半期と下半期、各期1作ないし2作の受賞作が選び出されます。受賞作なし、という場合もあります。
芥川賞の場合は「文學界」「群像」「新潮」「すばる」「文藝」などの主要文芸誌や同人誌に掲載された新人作品のなかから、もっともすぐれた作品が選ばれます。選考委員は現在の日本文芸界を代表する錚々たる作家たちです。
さて、1月10日(金)5限、文芸創作学科3年次生の宮下駿さんは、5日後にひらかれる2024年度芥川賞選考会に先立って、自分たち学生有志が「上から目線」で候補作を選考してしまおう、という傲慢不遜な会をひらきました。
画像中央に坐っているのが、司会役の宮下駿さんです。学生有志にまじって、倉数茂先生の顔も見えます。約2時間、Zoomで外とつなぎながら、丁々発止、議論がかわされました。
以下、主催者の宮下さんに、どういう経緯と目的でこのような会をひらいたのか、そして、自身の選考結果はどのようなものであったか、聞いてみました。

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この会をひらこうと思ったきっかけは、私が前回(第171回)の芥川賞の結果にあまり納得がいかなかったことにあります。
候補作を受賞作決定前に読み、どの作品が受賞にふさわしいかを私たち一人ひとりで決めてしまう。他人の言葉に判断が引っ張られてしまう前に、自分自身の感情を知り、自分自身の感想?意見を持つことがこの会の目的です。
今回の候補作から、私は鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」を推します。ゲーテのことをまったく知らない私にもそうなのかと思わせる圧倒的な知識量もさることながら、ひとつの言葉を巡る人間のあくなき探求心を描くこの作品からは、人間の、人間による言葉への信念が主人公?博把統一の行ないから強く伝わってきました。もちろん終盤のストーリーや登場人物の都合のよさなどには不満が残りますが、それらを差し引いても余りある力は受賞に値すると思います。
安堂ホセ「DTOPIA」は、一部シーンの印象の強さや、現代の社会問題、創作物の在り方、消費の仕方への問いかけなどにはっとさせられるところはありました。しかし私の恋愛リアリティーショーへの理解のなさや、恋愛リアリティーショーと主人公の回想との関係性がよくわからないなど、全体として自分にひきつけて読むことができませんでした。
竹中優子「ダンス」は、不思議な世界にも行かず、斬新な設定もありませんが、良くも悪くも妙に親近感のある等身大の「私」が描かれていて、あちらこちらに私の小さな分身を見つけられるようで、楽しく読むことができました。しかし平凡な日常にこれといった驚きは感じられず、物足りなさは拭えませんでした。前回(第171回)候補作の坂崎かおる「海岸通り」や、前々回(第170回)候補作の三木三奈「アイスネルワイゼン」などと共通する、おとなしさの中にひとつまみの狂気を感じる作品でした。
永方佑樹「字滑り」は、固定されている「文字」「言葉」の表記や文法が揺れたりずれたりしていくという設定がおもしろく、この作品が文章であることに意味を感じさせてくれる点で、好感を持てました。一方で表記や文法の揺れ?ずれが小説を越えてこちら側の現実世界まで侵食してくるというような展開を期待した分、後半の謎への迫り方にあまり新しさや驚きを感じられず、推すには至りませんでした。
乗代雄介「二十四五」は、候補作のなかでもっとも風景や会話の描写が丁寧で、特に「私」と弟の近くも遠くもないさらっとした距離感には好感が持てました。しかし全体の描写が丁寧な分、序盤の夏葵との出会い方により不自然さを感じました。また、これまでの作品にも登場する「私」の「叔母」に対する重い感情の理由が、本作単体で読んだときによく分からないというところに疑問が残りました。
今回の候補作からは全体的に「人間の生身の言葉」を強く感じました。第161回以来久しぶりに五大文芸誌以外の雑誌から候補作に選ばれたことに理由があるとしたら、AIで言葉を生成することができてしまうなかで、人間が言葉を生みだす意味?必要性をあらためて問うためではないでしょうか。
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(追記) 1月15日における芥川賞選考会において受賞作となったのは、安堂ホセ「DTOPIA」と鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」の2作でした。